君はもう見つけている 崩れかけた砂の上で

最近、幸田文が好きで、よく読んでいる。
彼女の文章は清冽だとおもう。
清冽で、清潔で、切れ味がいい。
まるで、糊のきいた真っ白なシーツみたいに。
甘くて酸っぱくて苦いグレープフルーツみたいに。


彼女のやり方には、必ず理由があって、
彼女の理由によって切られていく様子は、なんとも爽やかだ。
厳しいこともきついことも言っているはずなのに、
後味の苦さを残さないのは、やっぱり人徳なのかなとおもう。
一本筋が通っているから、疑問をさしはさむ余地もない。


彼女は、また、きもの好きでもあった。
「洋服」ではなく、「きもの」。
それは、彼女が明治に生まれ、
着物を着つける生活に慣れていたということもあるだろうけど、
やっぱり、着物の背筋の伸びた感覚が好きだったのではないだろうか。
帯をきゅっときつめに締める、あの感じは、着物にはないものだもの。
柔らかく身になじむ洋服を着ている私たちにはわからない緊張感が、
きっとそこにはあるんだろう。



けして楽な人生ではなかっただろう。
実母には早くに死別、夫とも離婚、娘を抱えて実家で父露伴との暮らし。
貧乏、戦争。
でも、そんな「安楽ではない暮らし」が、
しなやかで強い彼女をつくったのかもしれない。
なぜ、あんなにくじけずにいられるんだろう。
どうして、そんなに達観していられるんだろう。




老いてなお「崩れ」を見つづけた彼女。
その「崩れ」に、彼女は何を映していたのだろうか。