家族と共に幸福を目指し

幸福な食卓』と
明日の記憶』を観てきました。


 『幸福な食卓
「母さんが家を出て、兄が農業をはじめ、父さんが父さんを辞めた。
 それはいつも朝の食卓からだった…。」
主人公、佐和子の家庭では、朝ご飯を家族揃って食べるのが決まり。
しかし、そんな「楽しいはずの食卓」で、
佐和子の家庭は、変な方向にねじれていくのです。
そんな奇妙な家で、佐和子ひとりが、普通であろうと努力します。
そんなとき、現れた転校生、「大浦勉学」。
彼は自分の「勉学」という名前を笑わなかった佐和子に好感を抱き、
ふたりはいつしか親しくなり、やがて恋人同士になるのです。
しかし、突然、勉学に死が訪れます。
ふさぎ込む佐和子をなんとか慰めようと、
ねじれた家族はいつの間にか再生してゆくのでした・・・。


主人公佐和子を救ったのは恋人で、
その恋人は死んでしまう、というストーリーはちょっと安直ですが、
孤独を感じていても、きっと誰かに守られているんだよ、というメッセージに
泣いてしまう映画でした。
ミスチルの『くるみ』の詞にも、迫るものがありました。




 『明日の記憶
広告代理店に勤める、働き盛りの50代、佐伯雅行。
一人娘ができちゃった婚をしてしまうなど、ハプニングはあるものの、
ありふれてはいるけれど、ささやかな幸せに満ちた生活を送っていました。
そんな彼を突然襲ったのは、『若年性アルツハイマー病』という病気。
治す方法はまだわかっていません。
なんで俺がこんな目に・・・。なんで俺なんだ・・・。
掌からこぼれ落ちていく記憶。
必死にメモを取っても、それはどんどん消えていってしまいます。
言いたいことの言葉が出てこなくなり、
部下や後輩の顔がわからなくなり、
大事な取引先の場所や、アポイントの時間がわからなくなり・・・。
知っているはずの景色が、突然「見知らぬ風景」に変わってしまう恐怖。
そんな彼を、ずっとそばで支え続ける妻、枝実子。
彼女は、共に病と闘います。
佐伯は、妻に、こう聞きます。
「俺が変わってしまっても、俺が俺じゃなくなっても平気なのか?」
いつかきっと忘れてしまうだろう、
彼が妻と共に過ごした、妻との愛情の記憶。
そんな佐伯に、枝実子はこう答えます。
「私がいます。私がずっと、そばにいます。」
それから何年もの時が過ぎ、
ふらりと家を出たまま帰らない佐伯を探しに、枝実子がやってきたのは、
ふたりが出会った思い出の窯。
枝実子がたどり着いたその時、佐伯は、すでに妻をも忘れてしまっていました。
しかし、佐伯の手に握られていたのは、
「えみこ」と妻の名が彫られた、無骨な手焼きのマグカップだったのでした・・・。


「人を愛するとはどういうことか」
「ともに生きるとはどういうことか」
「わたしという存在は何なのか」
考えさせられる映画でした。
記憶を失っていくところは特に、
今の自分と重ねて、その恐怖が痛々しいほどでした。
わたしがわたしじゃなくなっても、そばで支えて愛してくれるひとがいること。
これがどれだけ心の支えになるか、
今のわたしだからこそ、理解できた部分もあると思います。


ふたつの映画に共通するのは
どちらも「家族のありかた」を描いたものであるということ。
ひとはひとりでは生きられないのだと思います。
夫婦、きょうだい、親子、いろいろな家族の形があるけれど
誰かがいれば、きっとひとは強くなれるのだと思うのです。